昭和51年4月6日 朝の御理解
第78節 神の機感にかのうた氏子がすくない。身代と人間と達者とがそろうて 三代続いたら家柄人筋となって、これが神の機感にかのうたのじゃ。 神の機感にかなわぬと、身代もあり力もあるが、まめにない。まめで 賢うても身代をみたす(尽くす)ことがあり、また大切な者が死んで 、身代を残して子孫をきらしてしまう。神のおかげを知らぬから、互 い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も 続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けることができる ぞ。
信心を頂いておるという事が、このようにも有り難くて、このようにも幸せだという事を感じる。また、それを人が見ても、あっちは本当に幸せそうだという幸せを感じれれるような信心でなからなければならん。自分だけがえつに行っておる。自分だけが、はあ、私は、まあ日本一の幸せ者だと言うておっても、第三者から見て幸せそうでなかったら、それは本当の幸せじゃないと私は思う。(との?)、あちらこそ、本当に幸せだろうと。と、どういう点から見ても、それを人からも感じられる、言うてもらえれると同時に、自分自身もそれを感じられるほどしのおかげ。
そういう、私はだんだん、おかげを頂いて行かなければならない。昨日は、学生会でした。私も一緒に、あの、参加させて頂く事になっとりましたけれども、次々と席を外さなん事がありましてから。本当、あの、昨日の朝の御理解を皆が一応頂いて。そして、昨日の朝の御理解をどう頂いたかという事を、まあ、一人ひとり簡単に発表してもらって、まあ、それを聞かせて頂くだけになったんですけども。私はもう、後で、まあ、若先生と話した事でしたが。
どうしてこんなにも皆が一行に、まあだ、大学生、大学に入ったばっかり。また、大学中の大学生ぐらいな若い、理屈を、言うならば、あの、普通の学生会というのは、もう理屈をもう、捏ね回すのが学生会のような感じだけれども。合楽の人達の場合は、もう一人ひとりが、もう感動的な、その発表なんですね。もう、本当に、私はそれが皆がそうであったのに驚いてしまいましたんです。ね。例えば、あの、一番端の手前から、あの、発表してくれと言ってから、ちょうどあの、尾崎さんところの二番目の息子、正継君が発表しておりました。
実は、出掛けに父から、お前はもうあんまりしゃべらんで、お話だけ頂いて来いち言われとったちゅう訳です。ね。けれども、今日の御理解を頂いておって、あの、神からも氏子からもそうほうからの恩人はという、あそこんところを頂いた時に、僕にとっての恩人は誰だろかと思うたと、こう言うんですね。僕にとっての恩人は、父だとこう言うんです。だから、本当は父が言うておる事。それ、大恩人と感じるならばです、その大恩人の言う事を聞かねばおられんというので、だと、言うがですね。
だから、今日は父がその、もう、その言うたから、大恩人の言うた事だから、もうあんまり話はせんというような事を言う訳ですね。それでいて、結構その、信心の確信に振れて。その話を、結局、父の信心を見、見下げ、見下ろししているという事なんですね。えー。もう、あの、佐田さんのところの紀子さん、それから秋永先生のところの、秋永文男先生ところの、(あねおみ?)さんですかね。それから、えびすらさんところの二番目の娘。えー、それから梶原君ところの妹が最近参って来るんですが。
とにかく、その昨日の御理解の頂きどころというものが、頂いてそこを発表し出したら、もう皆が感動して、声を詰まらせてお話がお話にならないくらいなんです。この、私は驚きましたですね。そして、やはり大学にでも行くくらいな頭脳を持っておりますから、そのお話も実に整然としてるです。ほれで、後、どういう、どうしてこんな、その皆、その、まあ何と言うですか。涙ながらに信心の有り難い事を話す。学生会に似合わない、合楽の学生会は違うねと言うて、まあ、話した事でした。
普通は、もう神の、神様があるかないかといったような問題が、その、話題に上ってね。そして、あるのないのというような、その言うなら理屈を言うのが普通。その、特に学生会なんかではそれが多いのですけれども。結局、親の信心をこのように、この人達が頂いておるという事ですね。私、今日の78節を頂いて、もう言うならば、見事に親の信心を二代が、このような感動で受け止めておるという事です。ね。神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き、身代も出来、一年勝り、代勝りのおかげを受けることが出来る。
もう、代勝りのおかげの受けられるものが、もうちゃんと出けておるという事です。いかに、例えば皆さんの信心が家庭において、または、それを言うならば、本当に信心頂いておるという事は素晴らしい事だと。と、子供が親の信心を見て思うとるという事。ね。言うならば、御信心を頂いておる親の皆さんも、なら、どの人のを言うてもです。御信心を頂いておるという事を有り難いと、言うなら幸せを感じ、子供から見てもやはり、本当に信心を頂いておる家族、家庭に生を受けたという事。親達が信心を頂いておるという事が、こんなに有り難いもんだという事を頂き止めておるという事。
本当に素晴らしい事だと、私は昨日、ほんなちょっと、30分あまりの。30~40分だったでしょう、私がそこ参加しましたのは。私がまた、お話し合いをしておりましたが。あの、私が聞いたところでは、そういうお話ばかりを皆さんから。しかも、その、非常に感動的に発表したという事がです。ね、今日の御理解を頂きながら、はあ、もう二代に、三代に伝わる事間違いない。そんなものを感じました。ね。
どういうところを、父の信心とか、親の信心というものを、あの、頂き止めておるだろうかという事を、まあ、考えて見ますとですね。信心を頂いておるから、良か事ばっかりという事じゃないけれども、どういう場合であっても、それを有り難く頂いて行く、その両親達の姿勢というものが、若い学生の人達の、まあ、信心とは素晴らしいなと感じさせるものであるという事を思います。同時に、その、合楽教会に自分の一家が御神縁を頂いておったという事が、また、こよない有り難いもんだと。
もう、とにかく二番目には、親先生はどうしよったか。親先生任せ。例えば文男さんところの直美さんが話してましたが。この頃から、その、東京行きをしております。今、従兄弟になります、秋永先生のところの京子さんが東京におりますから、そちらへ、まっ、遊びに行ってる訳です。そん時、お父さんが、だいたいもう、そげんとこ行って何になるかという気持ちだったなと思うんです。けれども、親先生にお伺いしてお許しが出たなら良かたいち、父が申しましたからこちらへ出て来た。
で、本当に親先生が言いなさる通りにしようと思うて。ところが、親先生がすぐお許し頂いたとこう言うんです。結局、私のわがままなんですと。ね、けれどもその、どんな場合であっても、さあ、親先生が良かちなったら、そんなら行かにゃ仕様がなかねという風で。もう、その、何もない訳です、そこに。というようにですね、どのような場合であっても、二言目には、親先生はどう仰ったとか、親先生はこう言いなさるからという事で、自分達の家庭というものが、まあ、おかげを頂いておるというような。
そう、言うならば、ね、恩人は親だけれども、またその上の恩人は親先生と、家の親達が頂いておるという事がですね、あんな感動を呼ぶのだという結論が、まっ、これは私の心の中で出たんです。どうして、揃いも揃うて、あの御信心を、なら銘々がその、(しるしいごと?)参ってお話を頂く訳じゃない。にも関わらず、そういう感動的な受け止め方を皆がしておるかという事は、親のそういう、言うならば、どんな場合であっても親先生任せと。
と、言えれる親先生を頂き、そういう教会に御縁を頂いておるという事がです、とにかく、合楽の学生会。これは、まあ、言うならば本部辺りの学生会のそれから言うたら、あんまり喜ばれない傾向ではないだろうかと言うて話した事でした。ね。昨日、本当な意味での退院になったからと言うて、昨日改まって、綾部さんお礼に出て見えられました。日田の綾部さんです。そして、実は、もうこんな事、その、秋永先生に、まあ、話されたんです。
こんなお届けしよったら親先生から怒られるから、笑われるやらがお届けしきらなかったけれど、こんな、あの、お知らせを頂いた。それはアンタ、そげな大事な事やけん、お届けしなさい、行かんねて言われてから、お届けをさせて頂くと、こういう訳なんです。それがね、その、昨日の朝の、一昨日を持って、まあ、本当の、あの、完全な退院という事になった訳ですが。その、自分でね、大きな蛇を三枚に下ろしとるちゅう訳。ね。
もう、蛇はもう大嫌い、代嫌いで、だいたいは。ところが、自分で三枚に下ろして、それをこう、お刺身のようにして、それをもう、その、嫌々ながらですね、もうその、食べてしもうたという、そのお知らせだったと、こう言う。だからもう、その、めぐりを食べるが何てんて、たら、また親先生からどうか言われりゃせんだろうかと思うて、もうお届けもしきらんでおります。昨日、ちょうど秋永先生、昨日、御用でこちらへ見えておりましたから。
秋永先生は話された。それは、そげな段じゃない。それは、あの、有り難い、それはお知らせであろうから、あの、お届けしなさらにゃいかんですよというので、まあお届けしますと言うて、その(しゃべっ?)たのがそういう事でした。まあ、ええ、蛇と言えば、そのめぐりのお知らせだと。その、めぐりをです、例えば嫌々ながらでもです、それを、この頂いておるというところに力がつくんだと。ね、難儀というものを向こうに押しやらずにです。
ね、今度の例えば、私は今度はじめて、綾部さんからあの、今度入院された、その顛末を聞かせて頂いたが。ほらあ、本当にやっぱおかげを受けてあるですね。もう、ただ、神ながらなおかげと言うより他にないおかげを、やっぱ頂いておられます。ね。それをその、例えば、人があの、そんな心の状態になれるはずはないと言われるけども、実際にそうだったんですからと、こう言われるのは、もう全然不安がなかったという事。
ね、親先生がバック、親先生が祈っておって頂く。もう、これだけで、これはね、嘘のようですけれども、これは本当でしたと。そのお医者さんが言われたそうです。本当にあの、その、生きた宗教を、そのお医者さんの御親戚がやっぱ金光様の御信者だそうです。それで、あの、金光様は、あの、生のお米を頂きますもんね、貴方も頂いてあるですかて言って言われたそうです。で、御神米頂いておる。そして、その心の(その?)動揺が全然見えなかったて。
ね、だから、もうとにかく、まあ、手術をするでも、大変、手術がし良くて。えー、その、結果はまた、たまがるように素晴らしい結果であったという事。ね。たとえば、んなら、昨日学生の方達が、あの発表したのはです。どういう場合であっても、親達が驚かない。親先生がおって頂くからと。しかも、どういう難儀な問題でも、それを避けようとしない。それを、真正面から、それは嫌であっても頂くという姿勢をです、示しておる。そういう親達の信心に、私はやはり信心とは有り難いもんだなあ、そして結果においてはそれがおかげになっておると。
ね、だから人間の本当の幸せというものはです、自分自身が、んなら合楽に御神縁を頂いておるという事に、有り難いというものを感じれれるおかげ。そしてそれを、んなら、周囲から見ても、脇から見ても、なら子供から見てもです。信心を頂いておるという事は、幸せだなと。そこに、本当の幸せというのがあるのです。それはどこにあるかと言うと、神の大恩を知ればというところをです。まあ、昨日の学生会の方達の言葉を借りるとです。ね、親先生の大恩、親先生の大恩を知っておるからという事になるのです。
親先生を通して、神の大恩をもちろん分かって行かなければなりません。また、分かっても行っとりましょうけれども。一番、手前のところであるところの、なら、親先生がいつもバックだという安心の、どういう場合であっても、動揺しないだけのものを、いわば、昨日、まあ、5~6人の方が発表しました。どの中からでもそれを感じられるんです。それが、ああいう感動を呼んだんだという事です。ね。言うならば、信仰の一つの土壌といったようなものが、家庭に出けておるという事です。
これは私、最後に梶原君の妹が発表しとりましたのを聞かせて頂いて、あの、貴方はいつも合楽にお参りをしてお届けに来ると、もう、えらい感動をしてお届けの半分も出けない。そして、下がったらもう嗚咽してお礼を言ってるんです。だから、何であんなに感動するのかと言ったら、その、親先生の前に出たらね、もう、とにかく感動が湧いてしょうがなくて。そして、しばらくの間、感動が続くと、こう言うのです。
それは、私はそういうような事がです、なら合楽に何回かしか通うて来てこないで、そういうような感動を受けるという事は、そういうものが、確かにこのお広前にはあるという事と同時にです。そういう信心の喜びといったような土壌がね、家庭に出けてるという事です。こちらは、だいたいが天理教の。叔父さんに当たる方は、教会を持っておられるくらいな、熱心な御信心を頂いて。一家が全部、天理教の御信心を頂いておられる。なら、天理教なら天理教という事によってです、信心の土壌が出けてるんです。
それが、たまたま、なら合楽に御縁を頂いたら、途端にその信心の理屈を、訳は分からんなりに有り難いものが、こう頂けて来る訳なんです。ね。えー、稲垣さんところの息子が発表しておりましたけれども、母があのように熱心に信心を頂きます。父が信心がありません。そこで、その、父と母の間で、まあ、その、いわば板ばさみになるような事がありますけれども。ね、今、鹿児島の大学に行ってるんです。
で、帰って来た時だけは、普通は母親の信心、言うなりに信心を進めておる。だから、帰った時だけは、あの、父親の言う事を十分に聞かせて頂きたいと思う。どういう事を言うても、あのお父さんが言う事を聞きたいと思う。それで、あの、両親の何か一つのバランスのとれたものを感ずるといったような事を言ってますがね。もう、信心になりきってるんです。ね。そういう、私は信心の家庭、または、親達の信心のおかげによって、信心の土壌が豊かになっておる。そこに育っておる。
で、それでいつも、そのお参りが出けるとか、お話を頂く訳じゃないけれども、昨日の朝のあの大変な、昨日の朝の御理解は難しかった。言うなら、私が後で、今日の御理解はまるきり、末永先生と富永先生のための御理解のような御理解だったねえと。言うならば、本当に合楽流でお取次ぎの御用をさせてもろうて、あれ、現在のあのようなごひれいを頂いておられる。それを、もっと、もっと素晴らしいごひれいにされる事の為に、もう、言うなら今までの信心といったようなものを金繰り捨てて、って。昨日の御理解で言うならね。
そして、合楽一本、一途に行こうとしておられる先生方に対する、あれは御理解だったねというくらいに難しかったんです、昨日の御理解は。ね、それを、なら、あの、学生諸君の、が、頂き止めておるという事は、その、金光大神は神からも氏子からもそうほうからの恩人というところを、きせつして皆ね、自分の親の信心に結びつけておるという事です。ね。そして、お話をしながら感動が湧いて来るほどしにですから、常日頃に、何とはなしに信心の家庭に生を受けておるという事。両親が信心をしておる、親が信心をしておってくれたという事が、有り難い。
言うならば、神の大恩じゃなくて、親の大恩が分かって来ておる。ね、だから、その、まあ言うならば、神の大恩、親の大恩が分かり、そして神の大恩が分かって来るという、もう、基礎というものが、そうして出けて行っておるという事を、私は本当に有り難いと、こう思わせてもらいました。ね。いかに、お互いが信心の、その、を頂く者が家庭にね、その信心が本当に現されておる。正義さんところにしろ、佐田さんところにしろ、文男先生ところにしろ、稲垣さんのところにしろ。ね。えびすらさんところにしろです。
まあ、きせつして、ほんにそう言いや、昨日は菊栄会のところの方達の子、まあ子弟が多かった訳ですけれども。いかに、あの、信心が目ごもう家庭で出けておるかという事を思います。そして、思う事は、もう信心が二代に続く。いや、この信心を持つなら、三代目に続かんはずはないといったようなものを、まっ、感じさせて頂きました。そして親達がです、本当に信心を頂いておるという事が、合楽に御神縁を頂いたという事が、もういよいよ有り難いもんだという事を、口には言わんでも、家庭生活の中にそれを、もう現しておるという事。
それが、んならば、親達が幸せだと、有り難いと思うておると同時に、子供達もなるほど信心っちゃ、有り難いもんだなあ。人間の幸せというのはこれだろうと思うようなものを、ね、自他共にそれを感じ、または与えられるだけの信心。そこに、信心させて頂く者の本当の幸せというものを感じる。ね。普通では、もうあっちはお金もあるし、物もあるし、あっちは本当に幸せじゃろう、幸福だろうと。例えば、第三者から見れば、いうような場合であっても、本人は一つも幸せを感じていない。
ね、または、本人は、もう私のごたる幸せモンなおらんて、口では言いよるけれども、第三者から見てから、あの人が何の幸せじゃろうかいて、脇から見て言うごとあるようなものがないという事がです。私は、今合楽で御神縁を頂いて、合楽の信心を、言うならば自分の生活のいわば前面に現しておる人達の場合は、そういう風に感じ、そういう風に、また見えておるおかげ。いよいよ、神の大恩を知れば無事達者で子孫も続き、信頼も出け、一年勝り、代勝りのおかげを受ける事の出けれる基礎が、段々出けておられるという事を有り難いと思いますですね。どうぞ。
末永信太郎 ( 10月7日 )